なぜ男は、女性の前に立つと、いつもと少し違う自分を演じてしまうのだろうか。
普段は無口な男が急に饒舌になり、持っている時計や車の話を始めたり、過去の成功談を語り始めたりする。
聞いている側は薄々気づいている。
これは本当の自分ではない、見栄だと。
それでも、なぜそんなことをしてしまうのか。

それは、見栄が人間の本能に深く根ざしているからだ。
男性にとって「選ばれる」ことは、生存や繁殖の過程において、昔から非常に重要な意味を持ってきた。
原始の時代、狩りがうまくできる男や集団をまとめられる男は、生き残る力があるとみなされ、仲間にも女性にも信頼された。
その本能が現代にも形を変えて生きており、男は本能的に「自分の価値を示したい」と思う。
現代ではそれが、収入であったり、職業であったり、持ち物であったり、過去の栄光であったりする。

見栄を張ること自体は、必ずしも悪いことではない。
ときにそれは、自分を奮い立たせる武器になる。
自信がなくても「あるように振る舞う」ことで、その場を乗り越える力になることもあるし、相手にポジティブな印象を与えることだってある。
恋愛の入り口において、ある程度の自己演出はむしろ自然なことでもある。

しかし、問題はその先にある。
見栄は一度張ってしまえば、続けなければならなくなる。
虚勢が癖になり、それが自分の一部になってしまう。
そして気がつくと、「本当の自分」と「見せたい自分」の間に、大きな隔たりができてしまう。
やがてそれは、疲れや不安、孤独といったかたちで心に重くのしかかる。

さらに厄介なのは、男の見栄は男の世界にも強く影響を及ぼすという点だ。
男性同士の間には、言葉にされない「順位」や「立場」への意識がある。
見栄を張る男がひとり現れると、他の男たちの目が動く。
ある者は対抗心を燃やし、自分も何かアピールせねばと焦る。
別の者は冷ややかに観察し、内心で見下すことで自分の優位を確認する。
またある者は黙り込み、その場から距離を取ろうとする。
こうして、その場の空気は静かに変化していく。

見栄を張る男は、目立つ。
しかし、目立つことと尊敬されることは別だ。
見栄が本物であると信じられている間は、周囲からも一目置かれる。
だが、何かの拍子にほころびが見えた瞬間、それは一気に信頼を失う材料になる。
周囲の男たちが本音で接してこなくなり、笑顔の裏に距離が生まれる。
結果として、女性からも男性からも、本当の意味での信頼を得ることが難しくなる。

それでも人は見栄を張る。
張らずにはいられないのだ。
なぜならそれは、「愛されたい」「認められたい」「価値ある存在だと思われたい」という、誰もが抱く根源的な願いの表れだからだ。
だが、皮肉なことに、見栄ばかりが先立つと、かえって本来得たかったつながりから自分を遠ざけてしまうことになる。
見栄とは、自分の中の「理想」と「現実」のズレを埋めるための行動である。
けれども、理想にしがみつきすぎれば、現実が見えなくなる。
大切なのは、理想を捨てることではなく、理想に近づこうとする努力を「誠実に」見せることだ。
張りぼての自信ではなく、不器用でも等身大の自分をさらけ出すことが、実は一番強い見せ方なのかもしれない。
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